名古屋・久屋大通の雑居ビル。薄暗い通路を抜けた先に突然姿をあらわす真紅の扉。その重厚な存在感は、まるで時代をひとつ挟んだ別世界への入り口。ここ『Joe’skitchen』の厨房に立つのは、67歳を迎えた神農猛氏。横浜中華街で長く上海料理を続けてきた男で、積み重ねた年月をひけらかさず、静かに料理へ落とし込む姿が印象的だ。古典の型を決して見失わないまま、経験と感覚でほんの少しだけ角度を変えて皿に落とす。その佇まいは、まさに温故知新という言葉が似合う。

上海蟹のシーズンになると、この店のコースは常連であっても予約争奪戦。席数が限られているうえに、仕入れ量にも上限があるから、一夜のために多くの人がタイミングを見計らう。それだけ、この店で扱う上海蟹には確かな信頼が寄せられている。カウンターには、生きたまま空輸されてきた上海蟹がずらりと並ぶ。上海蟹は新鮮さが明暗を分ける食材で、身の張りや香りの透明度がそのまま味の輪郭を決めていく。

最初の一皿は「上海蟹の紹興酒漬け」。半熟の味噌と卵がぷるりと震え、舌の上でゆっくりとほどけていく。紹興酒漬けは酒の香りが前に出すぎて蟹の風味を覆い隠してしまうことが往々にしてあるが、ここではまったく別物。香りはやさしく背景に回り、主役の蟹の旨みがそのまま立ち上がる。二週間ほど漬け込むことで、酒と蟹の香りがなじみ、旨味の角がすっと丸く整えられるのだ。

続く蒸し蟹の雄雌食べ比べでは、濃厚さの質が一気に立ち上がる。雌はオレンジ色の卵がとろりと甘く、舌へねっとりとまとわりつく魅惑の濃度。雄は白子のクリーミーな旨味がまろやかに広がる。濃厚でありながら重くないのがこの店らしさで、気づけば無言で甲羅を追っていた。

その勢いを一度やわらかく着地させるのが「薬膳スープ」──冬虫夏草、朝鮮人参、鶏を合わせた一杯。上海蟹は体を冷やすとされ、薬膳で温の気を補うという考え方がコースの裏側に流れている。透明な見た目に反して旨味は深く、生薬のかすかな苦みが後半にそっと顔を出す。飲み込んだ瞬間、胃の奥がすっと軽くなり、ここで呼吸がひとつ落ち着く。

「空芯菜の腐乳炒め」は、古典の味わいを軸にしながら、火入れと香りの扱いに確かな経験を感じさせる一皿。腐乳のコクが野菜の青さを抱き込み、シャキッとした茎とねっとりした旨味の落差が楽しい。強火で押し切るのではなく、発酵の香りでまとめるあたりに、料理人としての節度が光る。

遊び心を忍ばせたのがホタテ入りエビマヨを揚げパンで挟んだひと品。外はサクッ、中はとろり。どこか屋台の記憶を呼び起こすような懐かしさをまといながら、香りの輪郭は驚くほど整っている。古い発想を新しい感性で仕上げる、その“温故知新”のバランスが見事で、コースの流れにふっと弾力を与える皿になっている。名店のラインナップに加わったのも最近で、今なお挑戦心が失われていない証拠でもある。

魚料理は、三重県産ハタの発酵唐辛子煮込み。発酵唐辛子ならではの軽やかな酸味に、トマトやズッキーニ、インカのめざめの甘みが自然と重なる。ひと口目は酸、後から辛、最後にハタの甘み。リズムのある味で、レンゲが止まらなくなる。仕上げにパクチーを落とすと、香りがふっと跳ねて皿に奥行きが生まれる。

肉料理は、継ぎ足してきた味噌だれで煮込んだ牛ほほ肉。大根と人参に旨味がしみ込み、重厚に見えて後味は驚くほど軽い。発酵の旨味が中心にありながら、古典の味の残り香も確かにある。ここにも温故知新の気配が漂う。

締めの「上海蟹あんかけ焼きそば」は、この店の象徴的な皿。蟹の足肉と味噌をたっぷり溶かし込んだ餡が、香ばしく焼かれた麺と絡む。赤酢がふわりと支えることで、濃厚なのにダレず、最後まで香りが凛としている。一日の締めを託すにふさわしい完成度。

ふわりと香る杏仁アイスで余韻をそっと整えてフィナーレ。

横浜中華街で長く積み重ねてきた上海料理の技を土台にしつつ、そこからひねりを加える。再解釈だけでなく、原点への敬意も感じさせる構成。その姿勢はまさに温故知新。真紅の扉を開けたくなる理由がここにはある。ご馳走様でした。
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Joe’skitchen
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